本当はそういう人を見るといたたまれない気持ちになるってだけ

言葉の間違いを訂正したがるバカいるでしょう。「確信犯の正しい意味は自分の信念や思想に基づいて犯罪を〜」みたいなの。

 

こう…たとえば飲み会なんかで、みんな盛り上がって話してる時にも流れを無視してでも、ぶっ込んできたりするわけですが、こういう人は「正しい」の基準がひとつしかないんですね。基準の根拠は辞書。

 

会話が成立して盛り上がってるのなら、わざわざ水を差す必要はなく、辞書的に意味が間違っていても、コミュニケーション的に正しい。飲み会の場は国語のテストではない。そして、たぶん、言葉の間違いを得意顔して指摘したところで、まわりの反応は「この人、賢い〜!抱いて!」なんてわけはなく「なんやこいつ…そんなことわかったうえで話しとんねん…うぜえ…店出た時に撒いたろ!」くらいが関の山でしょう。つまり辞書的に正しくてもコミュニケーション的に失敗している。

 

なので、ぼくなんかはそういう人を見ると「マイナスしかないのに、よく堂々と言えるよなぁ」と思います。

別の視点で見ると、すべての言葉の語源なり意味なりを把握している人間なんていないわけで、そういう指摘をしたがる人の脇はめちゃくちゃ甘い。もし自分が間違った言葉を使った時に、簡単にカウンターを喰らってしまうという想像力が一切ない。だからぼくは怖くてできません。こっちが一方的にぶん殴れるならぶん殴りますが、反抗されて殴られたくはない。

 

ソクラテスとかいうヒゲをいっぱい生やしてる人がいたでしょ。ヒゲがいっぱいなだけあって賢かったらしいですが、このヒゲが「無知の知」ということを言ってました。ヒゲが言うことなので意味はよくわかりませんが、おそらく言葉の間違いを指摘したがる人は「無知の知」からもっとも遠い感性をしている。

ネット上にはGoogleに頼って謎の万能感を持っている情報強者気取りが多いですが、普通の脳みそを持っているなら、世の中のことを知れば知るほど知らないことばかりという事実に気づくはずです。気づかない人たちはヒゲモジャ以前の知性で止まっているのです。ヒゲ生やせ!

 

そもそも言葉というのは厳密には意味を定義できません。ぼくが、たとえば「死ね」と言った時、それは文字通り「命を失え」という意味で言ってる場合と、そういうつもりで言ってるのではなくある種の親しさを伝えている場合があるわけです。ほとんど正反対といってもいい意味がひとつの言葉に含まれてしまっている。そしてどっちの意味で発しているかは、確定することができず、なんとなくでしか判断できない。

 

オースティンというハゲがいるんですが、このハゲはハゲているだけあって賢いことを言ってました。さっきの「死ね」という言葉の例えでいうと、前者の意味合いをコンスタティブ、後者をパフォーマティブと区分けしていました。「なに言っとんねんハゲが。眩しいんじゃ!」と思いましたが、とにかく分けてました。

言葉の原理主義者はコンスタティブな意味合いでしか言葉を捉えられないのです。しかし、日常会話のほとんどはパフォーマティブな言葉の使い方で進行していると思います。言葉の本来の意味をそのまま額面通りに受け取ることは少なく、その言葉を発した人の意図や裏側を読んでしまう。イルカのコミュニケーションはコンスタティブにしかできないですが、人間のコミュニケーションはパフォーマティブな側面を持っている。

 

最初に言った「言葉の間違いを指摘したがるバカ」がバカっぽく見える原因はこういうところです。あの人たちは紀元前の知能であり、さらにはイルカ並みの知能なのです。

 

 

長くなりました。

急になんでこんなことを書いたのか疑問に思う人もいるかもしれませんが、最近このブログのアクセス数が増えているのです。連日。ネット民と相性が悪そうな内容なので、これで減ると思います。明日はですね、書くことが思いつかないので、たぶん、あの話ですね。

 

 

おしまい