チョコ食べさせて怒られた時も「へへへっ…」って答えただけ

タッチを読み直してます。あだち充の。死ぬやつね、野球の。しかし序盤はダルいですね、昔テレ東系列でタッチの再放送をしてた時も「早くカッちゃん死ねよ」って思ってました。こいつ死んでからが本番だからね。

 

人生は一度きりしかないし、人間の時間は有限なわけです。するとですね、どうしても選択をしないといけないって話になる。「放課後は野球やるで!南を甲子園に連れてくんや!」ってタッちゃんも言ってたじゃないですか。タッちゃんはもともとボクシングをやってたけど、野球を選んだわけですね。

 

幸福とはなにか!それはひとつの選択肢を信じることである!不幸とはなにか!ほかにありえたかもしれない選択肢を想像してしまうことである!自分の庭を肯定できるか、それとも隣の芝生は青く見えるかみたいなことです。これはいまぼくが考えました。

 

タッちゃんは野球を選んで甲子園に行き南に告白して幸せになりました。なったと思います。しかしタッチのおもしろいところはですね、クライマックスまでその選択を信じられないんですね。ずっと、もしカッちゃんが生きていたら…というifに付きまとわれている。タッチは三角関係の話なんで、南がタッちゃんかカッちゃんのどちらかを選べば話は終わってたんですけど、カッちゃんが死ぬことによって逆に三角関係が解決しなくなってしまう。死者の呪縛って感じで。だからタッチってのは、カッちゃんが生きていた別の世界線を想像してしまう不幸な人たちが、その呪縛を断ち切り、いまここの世界線だけを信じることで幸せになる話といえる。

 

で、昨日の話の続きですけど、人間が生まれてきて共通の目的があるとするならば、幸福になることなわけです。そして赤ん坊を産んだ親の役目は、その子どもが幸せになるように行動すること、とされている。しかし問題は、親が子どもを幸福にしたいとがんばることと、子どもが幸せになるかどうかは別の話ということです。親がどうやったところで子どもは勝手に幸福になったり不幸になったりする。たとえば、質の高い教育を受けさせることが幸せにつながるだろうと親が考えたとして、私立の小学校に入れたところで、普通にいじめにあって不登校かます可能性だってあるわけです。親がコントロールできることなんてたかが知れてます。

 

いくら親が子どもにとって幸福になると思っている選択をしたところで、結果が幸福になるかどうかは別です。x+y=幸福(x+y=不幸でもいいですが)いう式があったとして、この場合のxやyは定数ではなく変数なんですね。状況によりコロコロ変わる。子どもの人格によっても変わるし友達によっても変わるし環境によっても変わる。そして、やっと昨日のチョコの話にまで戻りますが、子どもにチョコを食べさせない、健康や成長のためである、というのはxやyを定数だと信じてる人間じゃないとできない。幸福=健康だと決めつけないと無理です。しかし当たり前の話として、幸福=健康とは限らない。仮に一生チョコを食べなくて結果的に寿命が1年伸びたとして、それを幸せに感じる人もいるでしょうが、寿命は伸びないけどチョコ食って美味しい思いをする人生のほうが幸せだと感じる人もいるわけですね。

 

チョコオバさんたちは幸福=健康ってのを唯一解であると信じている。その選択肢だけが正しいと信じている。それはそれでまぁ別にいいでしょうし幸せな話だと思いますが、だからといって子どももそう思うかどうかは別です。あいつらの価値観、幸福=レゴランドとかじゃん。次の日には、幸福=木の枝をヒュンヒュン振ること、とかに変わってるし。健康とか二の次三の次でしょう、青竹とか踏まないもん。んで、そいつらが成長して大人になった時も「ウチの母親がチョコ禁止してくれてマジ感謝!」ってなんないよ。そんなラッパーいないよ。複数の選択肢を想像してしまい自分の現状を肯定できないのは不幸だとか言いましたが、そもそも選択肢を奪ってしまうのはもっと不幸です。

 

あと「子どもには判断能力がないから好きなようにさせてたら問題が起きる、だから親が強制的にでも監督しないといけない」という理屈にも反論は用意してありますが、長くなってきたし面倒になってきたし、終わります。たぶんその反論を披露することはないでしょう。それとやたら幸福とか言って宗教くさいし。ちなみに、もしこの記事にオバハンたちが文句を言ってきたらすぐに謝ります。「オバハンたちすみません!ぼくが間違ってました!おい子ども!チョコ食うな、そんなにチョコが好きならカカオ農園に売り飛ばしたるわ!」って言いますよ。明日はクッションの話をします。

 

 

おしまい