プロ野球の「退屈さ」について

日本シリーズですよ。見てます?

このブログは俺がヒマでヒマでどうしようもなくなった時に書き溜めていて、公開する時にはかなり時差ができるので時事的な事柄は書きたくないのですが、別にいいです。どうせほとんど誰も読んでないしね。今日、日本シリーズが開幕しました。

 

最近はラグビーが熱いじゃないですか。ぼくも見ちゃったりしてますけど、ラグビーに比べると野球はのんびりしてますよね。ノロマなんですよね、スピード感がないんですよ。野球って。

 

野球の本質はその退屈さにあるのではないか?これ、いま考えたぼくの持論です。プロ野球って物語化されやすいんですよ。たとえばスポーツ新聞を読んでみてください。大きくカラフルな文字で派手な言葉が並ぶじゃないですか。アレはプロ野球の本質的な退屈さに耐えられないからこそ、表れる表現なのではないか。

 

実際のプロ野球を見てみましょう。思いのほか間があるんですよ。ピッチャーは投げてからワンテンポ空けるし、攻守交代なんてCMが入る始末。マジとろい。こんなの、よくみんな喜んで見てるなと思いますよ。

 

いや、そうなんですよ。みんな見てるんです。退屈なのに。なぜか?それは、やっぱりその退屈さにこそ…おびただしいほど挿入される間によって、勝手な想像力が働いているからではないか?…これ、書きながら考えているので適当ですよマジで。

 

昔、巨人に落合がいた頃にね、落合ですよ、プロボウラー目指していた落合博満です。彼が巨人の四番に座ってた頃、一時期調子が悪かったんですよ。で、たぶん松井だったと思いますが、相手チームが松井を敬遠して落合との勝負を選ぶ場面があったんですね。この時、アナウンサーが「松井を敬遠して落合との勝負です…。」って言いながらカメラがネクストバッターズサークルに立っている落合の背中を静かに映してたんですよ。

 

これ、ドラマを想像させるんですね。三冠王を三回獲った落合の屈辱と、それに挑んで行く男の決意。この勝負、確か落合はタイムリーを打ってたと思いますが、これは間によって生まれる感動なんですよ。逆説的ですが、プロ野球というのはその絶対的退屈さによって逆に魅力を放っている。

 

まぁそんなことを考えながら日本シリーズをのんびり見てます。結果はどうなってるんでしょう。ジャイアンツとホークスなんてどっちが勝ってもいいですけどね。金持ちの喧嘩でしょ。いいよ、別に。好きにやってくれ。あと余ってる金、俺にくれ。

 

 

おしまい